長崎の歴史の本を読んでいた。
長崎と言うとキリスト教の伝来、鎖国中の唯一の貿易港、
明治維新のころのグラバーなどの洋館群などが有名だ。
これらよりずっと以前の遣唐使のころの長崎はどうだったのか。
などに興味を惹かれた。
遣唐使船の航路からみるとその頃から海上航路があったようで
五島灘を遣唐使船がすすんでいったかと思うとこれはロマンですね。
万葉のころは人もろくに住んでなかったとはおもいます。
あぐりの丘より神楽島を望む
島の名前の由来はもっと古い 以下ウィキペディア「神功皇后」
(じんぐうこうごう)
「日本書紀などによれば、201年から269年まで政事を執りおこなった。
夫の仲哀天皇の急死(200年)後、住吉大神の神託により、お腹に子供
(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新
羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済
も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻
き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は三つあっ
たとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈
町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇
美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。他
にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の
伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される」
三韓征伐の帰りにこの島で神楽を舞ったのでこの名がついたとか
遣唐使の航路については
五島市の
http://www.gotokanko.jp/kentosi.htm
に詳しい記述があります。
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